2019年末、パンデミックなんてまだなかった頃の話。
我々夫婦は冬休みに特別休暇をくっつけ、会社員生活ではなかなか取得することのできない超大型連休を取得していた。
その4ヶ月前に入籍した我々は、この機会に新婚旅行へと向かうべく、意気揚々と羽田空港で落ち合ったのだった。
行き先はニュージーランド。
湊かなえさんの小説『山女日記』で読んだ “トンガリロ” や、ニュージーランドの最高峰 “アオラキ・マウントクック” 、世界一の星空と称される “レイク・テカポ” など、ただひたすら大自然の壮大な絶景を見るため、あとは、真夏のクリスマスを一度体験してみたい、という思惑もあり、数ヶ月前から計画開始。
宿や現地での交通手段も随分前に全て確保し、「あとは飛行機に乗るだけ。これ以上に準備万端な状態などない」という我ながら見事なまでの計画性を発揮。万全の体調でこの日を迎えたのだった。
フライトのチェックインにもまだ余裕があり、腹ごしらえとして空港のレストランで呑気にチゲラーメンを食べる。特に今ここでやることもないし、談笑しつつ時間を過ごす。
ちょうどいい頃合いになったところで、キャセイパシフィックのチェックイン窓口に出向いたところ、長蛇の列が。
選んだフライトは、中国広州経由のオークランド行き。どちらかと言うと広州で降りそうな人々が目立つ。
30分くらい並んだだろうか。ようやく我々の番が来た。
今回の旅では少し大きめのスーツケースを持っていたので、荷物を預けつつ搭乗手続きを進める。
「広州経由のオークランド行きです」
窓口の女性に行き先を伝えたところ、
「オークランドですね。わかりました。ビザは持ってますね」と一言。
?????
目が点になる私たち。
「…持ってません」
「…出発の72時間前までに申請しないと入国できないんですけど、もしかしたら通るかもしれないので、念のためやってみてもらえますか?」
おかしいな。妻は10年前にもニュージーランドに行ったことがあったのだが、その時は短期滞在でのビザは不要だったはず…と思い返す。今回の滞在日数も、その時とさほど変わらない。
後からわかったことだが、どうやらつい3ヶ月ほど前から電子ビザの事前申請が必要になったそうなのだ。
今回の旅はフライトからホテルから全て個人手配。自画自賛するほどの計画性でもって何ヶ月も前にプランが完成していたことが完全に仇となり、電子ビザの情報になど全く辿り着けなかったのだ。
いや、今考えれば、10年も経っているのだから制度が変わるのなんて当然だし、海外に行くなら普通ビザの情報くらい調べるだろう!と突っ込みたくもなるのだが、もうこうなったら仕方ない。
窓口の方も念のためと言ってくれているので、とりあえずすぐさま電子ビザの申請サイトにアクセス。
当然ながら全て英語で、気持ちも動揺していたせいか驚くほど頭に入ってこない。数分格闘したが「これは無理だ」と悟る。
それに、申請を出したところで「72時間前まで」という規定なので、このままオークランドに到着したとしても、入国できるまでしばらく空港で過ごさなきゃならないのでは???と、もはや絶望感しか湧いてこない。
まだ飛行機にも乗ってないのに、完璧な計画が脆くも崩れ去った瞬間であった。
そして、おそるおそる夫に一言。
「行き先変えよう…?」
すると、幸いにして「同意」の意思表示が見られたので、窓口の女性にすぐさま「すみません、行き先を変えます!」と宣言。
「わかりました。ここでキャンセルの手続きができないので、予約した旅行会社に連絡をとって手続きをしてもらえますか?」
と、”誠に遺憾ながら”という言葉があまりにもぴったりな表情で言われたので、こちらは努めて明るく振る舞う。
チェックインカウンターを離れ、ゆっくり座れる場所を探しつつ、エスカレーターに乗りながら航空券の予約サイト、Expediaのカスタマーセンターに電話。
とてもテキパキとした女性が対応して下さり、あっけなくキャンセル手続きが完了。
しかも不幸中の幸いで、フライトの直前でも返金可能なチケットを選んでいた模様。
2人で2万円だったか1人2万円だったか忘れたが、キャンセル手数料だけ支払い、残りは無事に返金された。
ここからは怒涛の情報収集。一旦落ち着いて座れる空港内のカフェへ。どこへ行こうか、お互いにアイディアを出し合う。
アメリカ・・・ビザいるよ!
オーストラリア・・・ビザいるよ!
インド・・・ビザいるよ!
モロッコ・・・ビザいるよ!
スウェーデン・・・ビザいらないけど寒いよ!オーロラ見るには準備が足りなさすぎるよ!
こんな感じで、これまでに行きたい場所候補に上がったことのある国を挙げていったはいいものの、ビザの必要な国ばかり。
それに、我々はそもそも真夏のニュージーランドへ行こうとしていたのだから、軽装備しか持ってない。
買い足すとしても、オーロラ観察用のダウンなんかはさすがに用意できない。
ここである結論に達する。
事前準備なしで今すぐ渡航できる場所はヨーロッパだ。シェンゲン協定圏内だったら、移動の自由度も高い。でも北欧は時期的に厳しい。北欧以外の国にしよう!
そうと決まったら、次は航空券を探し始める。
東京発ヨーロッパ行きの様々な航空券を比較していたところ、夫があることに気がつく。
「ハブ空港行きの航空券が安い!」
イギリス・ロンドンのヒースロー空港、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール空港、ドイツのフランクフルト空港。
これら大きなハブ空港行きの航空券は、便が多いからか他の行き先よりも遥かに安く、往復1人¥50,000台の格安チケットがあった。
この値段なら、当初予約していたニュージーランド行きの航空券よりも1人約¥80,000節約できる・・・!
ではこの中だったらどこへ行きたいか。
特別な理由はないけど、直感的に「フランクフルトだ」とお互いの意見が一致。
すぐさま、翌12月23日の成田空港発の航空券を購入。中国・長沙で乗り換えがあり、フランクフルトには12月24日の早朝5:25に到着する。
これで無事に「せっかく長期休暇を取ったのに、新婚旅行に行けない」という最悪の事態は免れた。
羽田から成田に移動しなければならないが、これはまぁ仕方がない。
ついでに成田空港近くの宿も予約し、とりあえずの寝床も確保。
それから、ニュージーランドの宿と、北島から南島に移動するための国内線やレンタカーも全てキャンセルしなければ。
宿は全て予約サイト上で手続きが完了。返金不可の場所もあったがこればかりは仕方がないので潔く諦める。
国内線はAir New Zealandで予約していたが、電話で問い合わせなければならず、緊張しながら英語で電話。しかし、英語が拙すぎて言い分を理解してもらえず、相手が何を言っているのかもわからず、話が終わる前に電話を切られてしまった。
こちらは結局、翌日の日本語対応窓口の営業時間内にかけ直し、無事に手続きが完了。
次に、フランクフルトに行った後どうするかを決めなければ。フランクフルト到着日はクリスマスイブ。せっかくだからドイツのクリスマスマーケットに行ってみたい。
と思ったら次の壁が。
一般的にクリスマスマーケットは12月23日に終了し、しかもクリスマスは祝日なので街全体が休みに入る。
スーパーやレストランはもちろん、公共交通機関すらも休みになるらしい…
ということは、せっかくフランクフルトに行っても、人気の少ない冷え切った街中を彷徨い歩くことになるのか…?
静まり返った街そのものにはある意味魅力を感じるが、でも26日まで丸3日間そんな状態が続くのは辛すぎる…
良いアイディアが浮かばないので、こういう時は地球の歩き方だ!と、カフェを後にし空港内の本屋へ。
どうせどこもかしこも休みなら、2日分の食糧だけなんとか調達して、大自然の中に身を置くのがベストな選択肢では?
ドイツ版の地球の歩き方はいくつか種類がある。ドイツ全般の情報が入っているものと、エリア別に分かれているもの。吟味した結果、“シュトゥットガルト” (黒い森)という、グリム童話の世界観のような、名前からして興味をそそられる、自然豊かなエリアの情報が載っている”南ドイツ版”をひとまず購入。
成田空港にはバスで移動。到着後は腹ごしらえをして買い出し。
なんせ、真夏用の装備しか持ってない。真冬のヨーロッパに行くことは確定したので、寒さを凌ぐための諸々を揃えなければ。
ということでユニクロへ。極暖ヒートテック、ウルトラライトダウン、手袋を購入。
そして、クリスマス期間中の食料調達への危機感から、最悪の事態を想定し”米2kg”を購入。
ニュージーランドでもある程度自炊をするつもりだったので基本的な調味料は一通り持っていたが、さすがに主食は持っておらず。
数日ぐらいだったら、米さえあればなんとか生き延びられるだろう、という期待を込めて。
今回は幸いスーツケースで、スペースにも余裕があったので米を押し込む。まさか旅で米を2kgも持参する日が来るとは。
買い出しを済ませて、成田空港近くのホテルにチェックイン。
手続きを終えた後、窓口のスタッフから告げられた部屋番号は、なんと我々の結婚記念日と同じ数字だった。吹き出しそうになるのを堪えつつ、部屋に移動。
ここからはさらに具体的なプランを練り上げるべく、スマホとにらめっこ。
既に決まっている旅のざっくりとしたイメージは、「クリスマス中はどうせお店も空いてないから大自然に籠る、クリスマスが過ぎたら街歩きを楽しむ」。
せっかく地球の歩き方も購入したし、南ドイツエリアをメインに検討を重ねたけれど、どうも直感的にピンと来る流れが浮かばない。
シュトゥットガルトも大変魅力的ではあるのだが、なんとなく今の気分に合わない。ここでまさかの「ドイツはやめる」の選択肢が浮上。
とは言っても、フランクフルト行きの航空券を今からキャンセルすることはできないので、「フランクフルトからどこへ行くか?」という議論を開始。
ドイツ周辺国にも選択肢を拡大。地図の表示範囲を広げて目に入ってきた場所は、ドイツよりも更に南の国々。
夫「スロベニアは???」
あー!スロベニアね!ユリアン・アルプスがあるじゃん!
前に居酒屋で飲みながら「これからどんな国に行ってみたいか」という話をしていて、その時に挙がっていた国の一つにスロベニアがあった。
何かの記事で絶景山岳地帯である“ユリアン・アルプス”が紹介されているのを見て、とても興味の惹かれていたエリアだった。
よし。クリスマス期間中は、アルプスの麓で過ごそう。お店が全部閉まっていても、大自然の絶景さえあれば生き延びられる。
では、その後どうするか。
すると、夫から意外すぎる提案が。
「ヴェネチアに行ってみたい」
妻は一瞬耳を疑った。なぜそんな観光客だらけの超有名観光地に行きたがるのか。
人混みの苦手な我々は、これまでもどちらかと言えば「知る人ぞ知る」マイナーな場所を旅先として好んで選んできた。
スイスのサースフェー、フィンランドのサーリセルカ、アイスランドのスナイフェルス半島。旅好きの人にはお馴染みかもしれないが、一般的にこの固有名詞を言ってピンと来る人は少数派だろうと思う。
どうやら夫はずっとヴェネチアに興味があったらしい。しかも、以前に妻に言ったことがあったそうだが、「軽く流された」とのこと。妻はそれすら覚えてない。これは大変失礼いたしました。
イタリアはスロヴェニアの西側。国境を接しているので交通手段も確保できそうだ。
夫の強い意志に根負けし、クリスマス後はヴェネチアで過ごすことに。
帰りはまたフランクフルトに戻らなければならないので、日本へ向かうフライトの前日には戻り、少し散策する時間も設けることにした。
これでようやく、旅の大枠が決定。ここからは具体的なプランを詰めていく。
まずは、フランクフルトからスロベニアの首都リュブリャナへ飛ばなければならない。
すぐさま調べたところ、フランクフルト到着日の12月24日に、ベルギー・ブリュッセル経由リュブリャナ行きのフライトを発見。
これでスロベニアには入国できる。しかし、リュブリャナはユリアン・アルプスの麓ではない。ここからさらに移動しなければ、アルプスの絶景は見られない。
そもそもどこへ行ったらいいのか、今のところ全く知識がない。インターネットの情報を頼りに、我々が眺めたい景色はスロベニア最高峰の“トリグラウ山”であると見当をつけ、地図で見たところその麓に“クランスカゴーラ”という村を発見。ここに行けば狙い通りの風景が見られるだろう…!
ということで、今度はリュブリャナからクランスカゴーラへ行くための交通手段を調査。街の中心のバスターミナルから長距離バスが出ており、しかも2時間ほどで到着できることがわかった。
リュブリャナ空港に到着するのが12月24日の17時10分なので、その日はリュブリャナ中心部に泊まって、翌12月25日の7時30分発のバスに乗ることにした。
せっかくなのでクランスカゴーラに1泊し、翌12月26日の夕方にはリュブリャナに戻ってくることに。その日は再びリュブリャナに宿泊。
これでクリスマス休暇が終わるので、翌日にはいよいよヴェネチアに移動したい。交通手段はバスが一番手頃で良さそう。意外にも3時間半で到着できることがわかった。こちらも事前予約完了。
12月29日までヴェネチアに滞在し、隅から隅まで見尽くした後で12月30日にはフランクフルトに移動する。せっかくドイツに降り立つのだから1日ぐらいは散策日を設けたい。
12月30日早朝のヴェネチア発フランクフルト行きの航空券を手配し、夜はフランクフルト空港近くのホテルに1泊して、帰りのフライトに備えることにした。
こうして深夜まで情報収集と予約手続きに明け暮れ、翌日もフライト直前まで各都市での宿泊先を手配。外食のできないクリスマス休暇に備えて、キッチンのついたアパートメントホテルを選択した。
そして、成田空港離陸前までに無事全ての予約手続きを完了させることができた。
これまでにも2人で、スイス、フィンランド、アイスランドと個人手配で旅をして来たが、そこで培った経験値がなければ、今回新婚旅行に行くこと自体をやめていたかもしれない。もはやこれまでの旅は全て今回のためにあったのではないかとさえ思えてくる。
行程を全て自分たちでアレンジし、現地サイトで交通手段の予約をとり、自炊をする。これらの経験がなければ、絶対に今回のような局面と冷静に向き合うことはできなかっただろう。
1日がかりで練り上げた全く新しい旅のプラン。これが出来上がった時点で、何事もなくニュージーランドへ行くよりも面白い旅になることが確定した。
この経験を通し、改めて次のような教訓を得た。
■諦めが肝心
■すぐに切り替える
■今できることに目を向ける
旅にトラブルはつきもの。これまでの旅で、怖いくらいに全てが順調に進んだことの方が、寧ろ奇跡だったのだ。トラブルが起きてからが本当のはじまり。ここでどんな選択をするかで、その後の経験が一生物になる。
しかし本当に、こんな新婚旅行になるとは誰が想像しただろう!
ニュージーランドに行けなくなった瞬間、やたらと”ニュージーランド” という言葉が目や耳から飛び込んできた。
成田空港で最初に聞いた館内アナウンスはニュージーランド航空のものだったし、機内食で出てきたバターはニュージーランド産だった。
でも、結果的にニュージーランドには行かなくて良かったと思う。もし縁があればそのうちまた行く機会があるだろうし、もうないかもしれない。
ニュージーランドに行けなかったから知れた場所がたくさんあったのだから、これで良い。
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